「ゼロ年代の想像力」とかなんかそんなの

ゼロ年代の想像力」は「SFマガジン」という雑誌の先月号から宇野常寛というライターが連載しているコラムです。
とりあえず割と面白かったので、要約と紹介。


第一回の内容を簡単に要約すれば――90年代後半から台頭した「セカイ系」はもはや主要なタームではなく、ゼロ年代は「決断主義」の時代である。そして「セカイ系」などの影響下にある作品群が未だに強い影響力を持っているかのように思われるのは、東浩紀とそれに追従する者が過大に評価し過ぎたためであり、新しい想像力(決断主義)を評価するためにこれを葬り露払いしなければならない――という、ある特定の層の人たちを煽るキャッチーな内容であるため、一部の人たちにそこそこ注目されている。


第一回で宇野氏が挙げた『「決断主義」にみられる「サバイブ感」を前面に出した作品群』を以下に列挙してみる。
バトル・ロワイヤル」「DEATH NOTE」「コードギアス」「リアル鬼ごっこ」「仮面ライダー龍騎」「ドラゴン桜」「女王の教室」「Fate/stay night」「野ブタ。をプロデュース」「平成マシンガンズ」「蹴りたい背中」「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない
など。


次に『「古い想像力」の典型として挙げられた「引きこもり」と「心理学化」の特徴をもつジャンル、作品群及び作者』
アダルト・チルドレン系」「ポスト・エヴァ」「セカイ系」「桜井亜美」「田口ランディ」「浜崎あゆみの歌詞」「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「涼宮ハルヒの憂鬱」「ファウスト」「佐藤友哉」「滝本竜彦
など。


宇野氏の各作品についての言及は一部HPにも載ってます。

連載一回目では「新しい想像力」と「古い想像力」を対比的に論じ、現在では「古い想像力」は閉塞していると指摘。

連載一回目がここまで。

宇野氏は90年代後半を代表する「95年の思想」として「宮台真司」「エヴァ」「ゴーマニズム宣言」の三つを挙げ、その後の差異や内実を論じている。
主に『「価値観の宙吊り」に対する態度としての「〜しない」というモラルのあり方』について論じているが、この「価値観の宙吊りに耐える」ことから「中心的な価値観を選びなおす」立場にシフトしていった後に、「9・11以降のバトルロワイヤル状況」があるのだ、と指摘している。


面白いのはこのバトルロワイヤル状況の捉え方だ。宇野氏は、本田透や「セカイ系」擁護者なども含めて「小さな存在」同士が「信じたいものを信じる」「無根拠でも中心的な価値観を選ぶ」という主張・スタイルを押し通す流暢こそ「決断主義」であり、たとえ無根拠でも信じたいものを信じて主張する決断主義者こそつまり、バトルロワイヤルのプレイヤーなのだ、と述べている。


決断主義」についてはここまでで第三回に続きが載る模様。最後に「決断主義」を論じる伏線のために、少し別の状況認識が挙げられている。
東浩紀のデータベースを引き合いに出し、現在の状況は「軽い現実」「重い現実」に二分されている、という内容。
「軽い現実」とは90年代後半以降の価値観の相対化・消費の細分化のことでコミュニティ層のこと。
「重い現実」というのはアーキテクチャ、つまりWindowsmixi、大型ショッピングモールなどのインフラのことだと説明されている。


「軽い現実」(コミュニティ層)と「重い現実」(アーキテクチャ層)の二環境化を説いて――現実がいくら軽くなったところで、もう一方にある重い現実からは逃れられない*1――と指摘して「リセットできない現実」を考えることがゼロ年代の語る上で重要なのではないか、と説いている。(ここでは「時をかける少女」が引き合いに出されている)


ここまでが第二回までの内容でした。